Better Days Ahead / Pat Metheny分析

今回はPat Methenyの名曲『Better Days Ahead』を分析してみたい。

1989年発表の『Letter from Hom』に収録されている作品。

このアルバムはグラミー賞を受賞しており、初心者にもオススメできる名盤だ。

とりあえずオススメのライブ音源を聞いておこう。

 

Better Days Ahead - 1989年のモントリオールでのテイク

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不思議なようでキャッチーなところにしっかり着陸するテーマのセンス、メセニーの相変わらずの絶妙なタイム感、ラテンっぽいリズムと民族感、色彩豊かなハーモニー、良く出来ている。

Lyleのソロが非常に心地よく、この素晴らしいコード進行を見事に歌いながら駆け抜けていく。
メセニーのソロはまた打って変わってフュージョンらしいもので、コントラストを楽しめる。

最後のテーマではボーカルが加わるのだが、これもまた心地よい。

……とまあ、いろいろ語りたいことがあるのだが、今回は分析が主なので、感想についてはこの程度で終えておこう。

 

とりあえず、分析したものが以下だ。(誤りや、筆者の主観もあるでご了承ください)

  • 最終的なKeyはG♭メジャーだが、2回転調している。(BメジャーとDメジャーのキーが登場)
  • 最終的に和声はトニックに解決しない(サブドミナントマイナーに到達)が、メロディ上はしっかりとトニックに落ち着く
  • 一見複雑に見えるリハモーナイズされているポイントがいくつかある

 

では、もう少し詳しくみていこう。

 

1行目(1~4小節)

基本的にはDメジャーキー上のメロディラインと考えて問題ない。

ただし、和声的には1小節目だけBメジャーキーと考えるのが分かりやすい。

Dメジャーキーからみれば、Bメジャーキーは並行短調Bマイナーキーの同主調であり、よくある短三度間隔の転調である。

冒頭の原型はおそらく「F#m|B7|Em」というマイナーツーファイブであり、これはDメジャーキー上の「Ⅲ|Ⅵ7|Ⅱ」というメジャーキーの上で成立する一般的な進行だ。

これを代理などさせてリハモーナイズした結果、Bメジャーキーが理論的にはしっくりくるような和声になったと想像する。

F#mはドミナント化(おまけにSus化)させており、きちんと次はBMなので解決している。また、BMは逆にドミナントでなくなり、通常のメジャーセブンスコードになっている。

こうなってくると、これらはDメジャーキーの「Ⅲ|Ⅵ」よりも、Bメジャーキーの和声で「Ⅴ|Ⅰ」で捉えるのが素直だ。

他方で、メロディはBにメジャーキーのトニックはさほど感じられず、どちらかといえばDにトニックはある。

つまりトーナリティーの力強い働きにより、Dメジャーキー感が維持されたまま、異なるBメジャーキーの和声を使いつつ、それが反発せずに絶妙なハーモニーを作りだしている、という状態が冒頭部の真相であり、パット・メセニーのセンスがさっそく光っている。

 

続く「G/A」はASus4(9)で、上記の元ネタの「Em(Ⅱ)」に該当する部分をリハモーナイズしたものといえる。

ASus4は♭Ⅱではあるが、これはサブドミナントの代理コードなので、機能的には元ネタと同じ働きを持つ。

さらに、#Ⅳ7が現れるが、これはⅠ7の裏コードであり、Ⅳに解決するためのセカンダリドミナントである。

 

2行目(5~8小節)

「Ⅱ|Ⅲ|Ⅵ」とダイアトニックな進行が続いたかと思えば、「Am|D7|」からの「A♭M|D♭7」が登場する。

サイド・スリッピングと書いてあるが誤りで、ここで使われている技法は「Contiguous ii-V(コンティギュアス・ツーファイブ)」である。(どちらも同様にアウトサイド(理論を逸脱)な手法という意味では似ているが)

「Am|D7」とあからさまにツーファイブの形式を辿っており、次に解決すべき「GM」は見当たらない。Gメジャーキーの世界が展開されるのかと思えば、次に来るのは「A♭|D♭7|G♭」という元のツーファイブを♭させたもので、G♭に明確に解決しており、メロディラインも相まってG♭メジャーキーに転調している。

このように元のツーファイブをその形式のまま半音ずらすものがContiguous ii-Vであり、スタンダードにもよくみられるものだ。

 

3行目(9~12小節)

この辺りはセカンダリドミナントが連続する展開で、よくあるもので難しさはない。

 

 

4行目(13~16小節)


前半はサブドミナントサブドミナントマイナーを繰り返している一般的な流れで、注目すべきは後半の「D♭m7|Cm7(♭5)|D♭/C♭」の方だ。

#Ⅳm(♭5)はⅠ裏(トライトーン)でトニックの代理だが、このハーフディミニッシュコードは長三度下のドミナントの代理の機能を持つ。

つまり、具体的にはA♭7の代理なので、D♭に解決するセカンダリドミナント

では「D♭m7(Ⅴm)」という非ダイアトニックコードは何なんだということだが、#ⅣがⅠの裏(代理)なので、仮にここが#ⅣでなくてⅠ7だったと仮定すれば、ここは「Ⅴm|Ⅰ7|Ⅳ」の形式となるのでスッキリする。

これが実際にはⅤに解決するように変わり、さらにそこにアプローチするドミナントがⅤに解決するためのセカンダリドミナント(実際には代理)に変わり、結果Ⅴmが残っている状態である。(機能的にはサブドミナント代理)

 

5行目(17~20小節)

このセクションではF#のルートを固定して停滞させつつも、内声を変えていっている。

最後のF#sus(#5,♭9)は機能的にはサブドミナントマイナーであるものの(多分)Susでは珍しいテンションによって、絶妙な響きとなっている。

 

 

6・7行目(21~29小節)


終り方にはカラーが明確で、Ⅴからのサブドミナントマイナー

非常にジャズ的な動きで、和声的にはトニックに解決していないものの、その上のメロディラインではⅠがしっかりとサウンドしており、トーナリティー上はトニックに解決しているのがポイントである。

 

和声にこわだりたくばメロディを目立たせよ

さて、和声に限定して分析してみたが、そもそも本作はメロディラインが個性的で凝っており、それでいてキャッチーである。

ゆえに和声もこだわることができ、そうしてもまったくメロディはキャッチーさをキープできるのだ。

うむり、大切だ…。

The Long And Winding Roadを聞き比べることの意義

ビートルズの名曲『The Long And Winding Road』の2種類のバージョンを聞き比べてほしい。(この他にもバージョンがあるのだが)

 

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The Long And Winding Road』はLet It Be収録のものが世間にリリースされた。(1970年)

これはプロデューサーのPhil Spectorが大胆に介入し、ビートルズ内でも賛否が激しく分かれた。

Phil Spectorの十八番の「Wall Of Sound」の手法でもって、オーケストラと合唱団をオーヴァーダビングされ、ゴージャスなバージョンとなっている。

ポール・マッカートニーは上記の不評を抱えており、かなりの年月を越えて『Let It Be... Naked』(2003年)としてアレンジ前のバージョンが収録されてリリースされることとなった。

Naked版が、Phil Spectorによるアレンジがされる前の素のバージョンである。

 

Wall Of Sound

当時、Phil Spectorはプロデューサーながらその手腕のため、作曲家や歌手よりも有名になっていた。

その中核となる手法が「Wall Of Sound」であり、この手法はBrian Wilson(Beach Boys)やBruce Springsteen、日本でも大瀧詠一山下達郎に影響を与えている。

EnyaのアレンジャーNicky Ryanも影響を受けていると聞き、そういえばEnyaも分析してみたいことを思い出した。)

Phil Spectorは60年代にこの手法を駆使してヒットを連発していく。

Wall Of Sound」はよく「同じ音を重ね、音の壁のような分厚く迫力のあるサウンド」と言われるものである。

Phil Spectorは一つの塊としての音に拘ったため、必然的にモノラルサウンドになってくる。

  • The Crystals - Da Doo Ron Ron

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ハイテクになる現代録音

おさらいになるが、モノラル(単一)は1つのマイクで録音された音、あるいは1つのスピーカーで再生する方法であり、ステレオ(立体的)は複数のスピーカーによって立体感・臨場感が得られるように再生する方式である。

劇的な進化は60年代で、テープ/レコーダーがモノラル(1トラック)からステレオ(2トラック)、さらにそれが4トラック・8トラックと増えていき、70年代には32トラックにまで到達した。

加えて90年代後半のDAWの普及により、作曲がデジタル化・民主化・記号化され、ピッチ補正、間違った部分の違和感ない編集、後からの音色や歪などの加工などと無限にも思えるほど拡張され、完全にレコーディングは作曲工程の一部に過ぎなくなった。

さて、この問題については別途言及するとして、ここで注目しておきたいのは「音数の肥大化」についてである。

この向きによって考えられるのは「とりあえずトラック数が多ければ凄いんじゃね」というパターンが一つの極としてありえるだろう。

実際にKing Gnuがトラック数が最低でも70、300いったりもすることについて言及し、話題になったりもした。

勿論、凡人がどれだけトラック数や音数を増やしたところで、3つの声部だけで作られているはずのビル・エヴァンス・トリオの足元にも及ぶことはない。

サウンドはそんな単純でヌルいものではないからだ。(実際、熟練の音楽家は空間を上手く使う。)

 

結論は…保留

Wall Of Soundの作品を聴いてみて超マルチトラックな現代の作品と比べて退屈と感じるかといえば、全くそうでない。

むしろ骨董品を楽しむような絶妙な距離感、ミニチュア感があり、非常に面白い。

もっとも例に挙げた『The Long And Winding Road』はどのバージョンも完璧だとは思っていないので、どのバージョンが一番いいとも断言できないが。

今回の思索はこれだけでは終わりそうにないので、また続くこととなる。

 

 

 

 

 

全盛期B'zについて:前編

わたしは幼少期はB'zの初期~全盛期時代にハマっていた時期がある。

今から見返しても、このころのB'zには注目すべき原石が散りばめられており、改めてまとめておきたいと思った。

 

言うまでもなくB'zは日本を代表するアーティストであり、ロックユニットである。

1988年にデビューしてから現在に至るまで日本のトップシーンを走り続けている。

そういった一般論はわたしがわざわざ言及するまでもなく、Wikiなどでおさらいすればよいだろう。

B'zは確かに邦ロックブームの中にあり、小室哲也の流れを組むものであるが、B'zはそれらすべてと一線を画す別格のものであるというのがわたしの見方である。

 

ここでいう全盛期のB'zとは、5th『In The Life』~8th『LOOSE』『Friends Ⅱ』までの期間とさせていただきたい。

この後も充分な活躍を見せるのだが、この辺りのB'zはちょうど発売するシングルが全て連続でミリオンヒットを達成するという常軌を逸する功績の期間にも概ね重なる。(まぁ、ここではB'zのセールスでなく価値的本質にのみ注目しているのでどうでもよいのだが)

 

B'zのどこが特別か?について少しづつ触れていこう。

まずサウンドの完成度が挙げられる。

このころのB'zのサウンドは、同時期の他アーティストと比べて圧巻で、それは松本の充分な仕事は勿論ながら、明石昌夫(Bass、アレンジャー)のアレンジメント能力と野村 昌之(レコーディング・エンジニア)のエンジニアリング能力に強く支えられている。

謡曲が根幹にありながら、ハードロックのワイルドさ、ユーロビートのきらめきが融合されており、哀愁とゴージャスさとダンサブルさを同時に味わえるサウンド、とでもいうべきか…。非常に贅沢なものである。

  • 傷心(Friends Ⅱより)

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松本のギターの存在も大きい。日本でよく目にする、入れ替え可能なとりあえずいるだけのギタリストとはまったく意味合いが違う。

海外のギターヒーローに影響を受けつつも、そのギターサウンドは独自の個性豊かなものであり、綺麗でハッキリした奏法とエレクトリックな音造りはすぐに松本のそれとわかる。

そしてグルーヴィーすぎずポップスの枠に収まるような絶妙な感じだが、存在力がしっかりと強力なため、巷のギターサウンドとは一線を画すものとなっている。

 

さらに加えて稲葉の圧倒的な歌唱が挙げられる。

ロディアスさと哀愁とワイルドさを兼ね備えたハスキーボイス、そして恐るべき倍音、ブルースを意識したフォール。

稲葉の声がサウンドに与える影響も素晴らしく、声部を一つ足しただけでは済まないようなオーケストレーションが加わるのだ。

 

(松本による)作曲のほうでも、メロディの択の素晴らしさは見過ごせない。

サビこそB'z節といえるようなパターンが予想できるのだが、ほとんどの場合、高品質なのはAメロとBメロである。

これの圧倒的たるゆえんは、その引き出しが海外のロックアーティストに起因するからだと考える。(ゆえに、パクリ/オマージュ論争を呼んだりもした)

当時の多くのポップアーティストの引き出しは国内を中心としているなか、B'zはグローバルに優れた引き出しを持っていた。

そしてそれを歌謡曲的なテイストに落とし込むのが上手かったのだろう。

 

簡素ながらも以上が、B'z全盛期が同時期の他アーティストと比較にならぬほど突出している理由である。

次回は具体的なアルバムレビューを行いつつ、上記の事実をより詳細に紐解いていこう。

 

 

 

 

 

 

アルバムレビュー Rainbow / Rising(虹を翔る覇者)

リッチー・ブラックモア(Gt)、コージー・パウエル(Dr)、ロニー・ジェイムス・ディオ(Vo)というハードロックにおける伝説の3プレイヤーが中心となって構成された時代のRainbow、その2ndにして最高傑作アルバムが『Rising(虹を翔る覇者)』である。

HR/HMの歴史に燦然と輝く名盤であるが、HR/HMの代表的名盤のなかでは意外と目立たないが、それはこの高級感ゆえのことだろう。

ところで、この編成は「三頭政治」とも言われ、非常に個性的なカラーのグルーヴとサウンドを生み出した。

他のメンバーはジミー・ベイン(Bass)とトニー・カレイ(Key)であり、この一作で解雇されたもののかなり良い仕事をしている。
ハードロックの図式に則りながらも、中世ローマかなにかの魔女狩りが行われていそうな呪術的でダークファンタジーな世界観がサウンドとして表現されている。
これは、リッチーがDeep Purple時代から挑んできたハードロックとクラシックの融合の完成系でなかろうか。

 

Rising (1976)

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  1. Tarot Woman
  2. Run with the Wolf
  3. Starstruck
  4. Do You Close Your Eyes
  5. Stargazer
  6. A Light in the Black

 

『Rising』はHR/HMが到達した一つの頂点であり、特に後のヘヴィメタルサウンドにとって重要な影響を与えている。
余談だが、よく「HR/HM」と呼ばれるのは、HR(ハードロック)とヘヴィメタル(HM)の区別が難しいためである。
ハードロックに比べてヘヴィメタルはギターが2人の編成であることが多いこと、クラシックの要素が増え、ブルースの要素が減っていることなどが分かりやすい特徴ではあるものの、「どこから?」という区別に絶対のルールはない。
MetallicaやSlayerになってくると完全にヘヴィメタルであってハードロックではありえないと思えるが、RainbowやBlack Sabbathなんかはそんなにきっぱり分類できるものでない。
本作はハードロックがヘヴィメタルへと移り変わっていく、その転換点の作品であり、ここで示されたテーゼがヘヴィメタルというムーブメントに帰結していったのだと、その後の流れをみると思えてくる。

収録曲を見ていくと、上記の観点で重要な革新的名曲は「Tarot Woman」「Stargazer」「A Light in the Black」であり、いずれもハードロックとクラシックの融合という課題に立ち向かっている。
その間でバランスを整えるように、「Run with the Wolf」「Starstruck」「Do You Close Your Eyes」というアメリカのビルボードチャートでも通用しそうなキャッチーなハードロックナンバーが並ぶ。

  • Tarot Woman

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一般的にはRainbowといえば他の代表曲が挙がるだろうが、個人的にRainbow最強の名曲であり、ハードロックの名曲TOP10には必ず入る。
シンセによるイントロでダークファンタジーの世界観に引き込まれ、刻まれるギターのリズムと異国的なシンセの絡みが徐々に盛り立てる展開ですでに期待MAX。
その雰囲気のままミドルテンポのクールなリフが参入し、異国的シンセが絡みつつ、Dio絶唱というに相応しいボーカルが乗っかる。
Aメロ~Bメロ~サビのすべてのメロディの選択が過不足のないまさに”完璧”であり、ハードロックなAメロ、スイートなポップセンスの光るBメロ、クラシカルなサビを違和感なく繋ぎとめ融合している。

 

  • A Light in the Black

 

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クラシカルなギターリフ、ダークな歌メロとコード、それらをひっさげ、どこか冷めたようなグルーヴで疾走するのがたまらないスピードチューン。
スピードチューンながら意外と8分以上もある長さでコンパクトでなく、冷めた温度感で前述の感じで進行していくのだが、中盤の間奏が非常にクール。
ディープパープルを思い起こさせるシンセソロ~メタルの定番のようなユニゾン~ブルージーなギターソロ~フレーズがクラシカルになっていくのとともにKeyも加わりバンドアンサンブルとなり、リフに戻る。
ターンアラウンドでまったく同じフィルとキメが入るのが効果的で、この間奏はひたすらトリップさせられる。

 

 

久しぶりに聞いてみるとこのサウンドは本当に凄い。
ハードロックは本作の影響もあってクラシック的になっていき、ヘヴィメタルとして脱ブルースされたジャンルへと変容していく。
ヘヴィメタルはそれはそれで素晴らしいのだが、結局はヘヴィメタルもこれ以上進化できなくなり頭うちとなっているように見える。
それはヘヴィメタルがクラシック化し、ブルースの持つ絶妙なグルーヴとフィールを失い、記号論的な解釈に閉じ込められたからであるとみている。
他方で本作は、ヘヴィメタル的なロックとクラシックの融合と同時に、ブルースを基調としたロックンロールのグルーヴをどちらも持っているので、絶妙なバランスの素晴らしいサウンドとなっているのだ。
もし、ロックの進化の過程でもっとブルースを失わなかったら、今ごろはどうなっていただろうか?
こんなふうにロックの歴史の進化についてのifを考えたくなってしまう、素晴らしい名盤だ。

スタンダード分析 Cantaloupe Island

黒本Ⅰ収録のスタンダード『Cantaloupe Island』を取り上げてみたい。

巨匠Herbie Hancockに作曲で、ブルースっぽいようなそうでないような、ブルースをモードジャズ化したようなモダンな作品である。

同氏の『Watermelon Man』にもかなり類似しており、そのマイナー版という雰囲気だ。

限定された素材だけで(たぶん)当時としては新しいことをやっている革命的な構造を持っており、さすがの天才性に頷ける。

 

  • ノーマルな分析(Key:Fm)

普通にFmがトニック感があるのでFmとして捉えるのがノーマルだろう。

このうえで以下のようにスケール/モードを想定してアドリブを展開するのがよさそう。

Fm7: F Dorian

D♭7: D♭ Lydian ♭7th

Dm: D Dorian

ところが、終盤に登場するDm(文献によってはDm7)がどのようにとらえてよいかやっかいなコードである。

構成音的にⅠMajorに近く、絶妙な響きを持っている。Ⅰ(Fm7)になんとなく着地したがっているような響きに思えなくもない。

 

  • Cmでとらえなおした分析(Key:Cm)

実践的には役に立たないがこのようにとらえると和声的にはしっくりくる。

Fmキーだとなんだこれ?だった和声が、別のKeyで捉えるとスマートにとらえなおせるという事実は面白い発見である。

 

 

  • 名演 Cantaloupe Island(Live, 1990)

Herbie Hancock, Pat Metheny, Jack Dejohnette, Dave Hollandという泣く子も黙るほどの最高峰の豪華編成。

パットメセニーとディジョネットが一緒にデパートで買ったペアルックのシャツを着ている(妄想)。

特にハービーのコンテンポラリーに片足をつっこんでいそうなアドリブが素晴らしい。

スペースをしっかり確保しつつ、エモく斬新なフレージングの羅列で難解にもみえるが、微かに展開が映し出されるようなバランス感覚には完敗だ。

タイム、ニュアンス、ハーモニー、フレージング、発想、展開力、すべてが鬼。

それを引き継ぐメセニーは、明確にモティーフを展開し分かりやすく展開してくれており、こちらも本当に素晴らしくハービーにも負けず劣らずだ。

キャッチーさ、モーダルさ、それらを適切に即席で組み合わせる手際のよさ、本当になんなんだこの次元…。

グレン・グールドの貴重なバッハ解説動画

グールドがバッハをピアノで演奏することの意義について語っている貴重な映像があった。

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バッハの時代には現在のピアノは存在しなかった。
ゆえに、バッハが好むチェンバロクラヴィコード以外でバッハを演奏するのはバッハの考えを逸脱するものだという説もあるくらいだ。

ピアノが当時あればバッハは使っていた説を唱えたりと反論することもできようが、グールドによればそれは本質でないという。
ピアノはバッハに向いている面、向いていない面がある。

グールド曰く、作曲家には二つのタイプに大別できるという。

  1. 楽器や編成の可能性をとことん追求するタイプ
    究極のソナタ交響曲を書こうとする(パガニーニ、リスト、マーラー等)
  2. 構造そのものの意味を重視するタイプ
    まさに晩年のバッハがこれ(極端な例としてカール・ラッグルズを挙げる)

フーガの技法に代表されるような、後者のタイプは様々な構成でやっても本質は損なわれない。
構造が堅固だからである。時代の流れはそれとは違う方向だったからそれに背を向けていたのは凄いことだ。

グールドは、ゆえにピアノでバッハを演奏するのがどうとかいう編成上の問題には関心がない。
(実演上は曲によってピアノの方が音量バランスが良いもの、そうでないものがあるが。)

 

それにしても演奏技術の凄まじさにも驚かされる。信じられないほど上手い。
動画では同じ曲を、左手はチェロのピチカート、右手はフルートかヴァイオリンをイメージして演奏するバージョンと、まさにピアノ的に演奏するバージョンとを比較用に披露してくれている。
このニュアンスの繊細な使い分けのテクニックにはさすがと言わざるをえない。

 

グルードの熱狂的なバッハ(についてのある考え方)への執着は凄まじいことで知られているが、この動画からも伝わってくるし、彼のどの演奏をきくだけでもそれが伝わってくる。
この一貫性は何ということか!
本当に芸術家はこのようにありたいと思わされる。

循環と逆循について

循環/逆循と呼ばれる進行がある。

基本系は以下の通り。

  • 循環

  • 逆循

循環と逆循で、2小節ごとのセットが逆になっている。(なので逆循環)

ようするに終盤と先頭が「Ⅴ→Ⅰ」だとか「Ⅵ→Ⅱ」と繋がるようになっており、無限に繰り返せるような進行である。(広義では繰り返せる進行はなんでも循環である)

英語圏では「Rhythm Change」と呼ばれており、その名の通り『I Got Rhythm』が元ネタとなっている。

邦楽では逆循環が人気で、いわゆる王道進行は逆循環である。

 

コード進行での実践例をみてみよう。

  • Candy(Key:B♭Major)

謡曲の元ネタになっているのではと思えるほどキャッチ―なメロディを持った名曲だが、和声的にかなり洗練されたCandy。

逆循。

「Ⅲ→Ⅵ→Ⅱ」も五度でドミナントモーションできることが再確認できる。

 

  • Perdido(Key:B♭Major)

デューク・エリントンのスタンダード。

これまた「Ⅲ→Ⅵ→Ⅱ」でドミナントモーションしつつ、Ⅴの前に25化している。

※Cm7はⅡの誤りです

 

例えば、Just the two of us進行も循環の一種と思われる。

C7→FM7で無限に繰り返せる。

 

循環は重要な基本素材であり、これを応用・発展していかようにも膨らませる。