グールドがバッハをピアノで演奏することの意義について語っている貴重な映像があった。
バッハの時代には現在のピアノは存在しなかった。
ゆえに、バッハが好むチェンバロ、クラヴィコード以外でバッハを演奏するのはバッハの考えを逸脱するものだという説もあるくらいだ。
ピアノが当時あればバッハは使っていた説を唱えたりと反論することもできようが、グールドによればそれは本質でないという。
ピアノはバッハに向いている面、向いていない面がある。
グールド曰く、作曲家には二つのタイプに大別できるという。
- 楽器や編成の可能性をとことん追求するタイプ
究極のソナタや交響曲を書こうとする(パガニーニ、リスト、マーラー等) - 構造そのものの意味を重視するタイプ
まさに晩年のバッハがこれ(極端な例としてカール・ラッグルズを挙げる)
フーガの技法に代表されるような、後者のタイプは様々な構成でやっても本質は損なわれない。
構造が堅固だからである。時代の流れはそれとは違う方向だったからそれに背を向けていたのは凄いことだ。
グールドは、ゆえにピアノでバッハを演奏するのがどうとかいう編成上の問題には関心がない。
(実演上は曲によってピアノの方が音量バランスが良いもの、そうでないものがあるが。)
それにしても演奏技術の凄まじさにも驚かされる。信じられないほど上手い。
動画では同じ曲を、左手はチェロのピチカート、右手はフルートかヴァイオリンをイメージして演奏するバージョンと、まさにピアノ的に演奏するバージョンとを比較用に披露してくれている。
このニュアンスの繊細な使い分けのテクニックにはさすがと言わざるをえない。
グルードの熱狂的なバッハ(についてのある考え方)への執着は凄まじいことで知られているが、この動画からも伝わってくるし、彼のどの演奏をきくだけでもそれが伝わってくる。
この一貫性は何ということか!
本当に芸術家はこのようにありたいと思わされる。